3歳の記憶 遠く深く そして 鮮やかに刻まれている

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旦那さんのお母さんが亡くなった

100歳

百寿での旅立ち・・・・・

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目次

火葬炉から出てきた腕 あれは・・・・一体・・?

51年生きてきて、冠婚葬祭に参加したのは、2回くらい。

結婚式に関しては、招待を受けて欠席をし、それ以来は一度もない。

それくらい、人とのつながりのお式に呼ばれたことがない。

なんて希薄な人間関係。

薄っぺらすぎて、透けて見えるような人生

それでも、覚えていることがある。

初めて人の「死」というものを知ったときのこと。

あれは、幼稚園に上がる前くらいの話。

家で過ごしていたら電話が鳴った。

母親が出て、急に声色と表情が暗くなった。

悲しそうだった。

どうしたのか聞くと、

「おばあちゃんが亡くなったの」

意味が分からなかったが、母親の悲しい顔を見て、

きっと楽しくないことなのだろうと思った。

その夜、夜行電車に乗って、母親の田舎へ。

福島県の郡山だ。

葬儀の準備で、大人たちはバタバタとしていた。

子どもたちは、家の一部屋に集まって、遊んでいた。

訳も分からずに時間を過ごす。

そして、火葬場へと向かう。

場所がどこであろうと、3歳の子どもには遊び場である。

年の近い子たちと遊びまわっている。

いざ、炉にご遺体を入れ、待つことに。

その時、私は忘れられない、のちにトラウマのようになるようなものを見てしまう。


私のひいばあちゃんにあたるご遺体を焼いている間、

上の階にある待合室のようなところへと通された。

そこからは、焼き場を見下ろすことができた。

屋内プールを上から見下ろすような具合だ。

しばらくすると、隣の炉が終わり、中からお骨が出てきた。

初めて見る骨。

しかし、それは骨ではなく、

マネキンの腕のようなものが出てきた・・・・・。

大人たちが口々に噂をする。

「隣の人は、病気でずっと入院していたんですって。
 たくさん薬をつかっていたらしいわよ」

47年も前の記憶。

たぶん、現実とはねじ曲がって覚えているのだろう。

それでも、出てきた白い物体は、なぜか恐ろしく、

3歳ではあったが、ひどく怯えていたのを覚えている。

飾られていた写真には人が写っているが、

炉から出てきたものは、

白い物体だったから

「おじちゃんの腕はどうしたの?」

ひいばあちゃんの葬式とはいえ、買いだしもしないといけない。

繁華街へと出かけた。

郡山の駅付近はちょっとした大きい街だ。

その日は日曜日だったような気がする。

大通りは歩行者天国になっていた。

たくさんの人が行き交う。

その中で、ひとりの男性が、正座をし、

身じろぎもせず、じっと座っていた。

前に手をついて、頭を下げている。

その腕は、片方が、鉤型になっていた。

義手だった。

目線は、動くことなく一点をみつめ、

何かをにらんでいるようだった。

その表情は、怒りと、苦しみと、悲しみと、惨めさとが

入り混じった表情で、それを必死に抑えているような表情だった。

その男性の足元には、段ボールで出来た看板のようなものがあった。

手帳くらいのサイズ。

字が書いてある。

「お母さん、あのおじちゃんの腕はどうしてあんな形なの?」

子どもだった私は、母に尋ねる。

「しっ!見ちゃダメ」

私は、母の陰に隠れ、その”おじちゃん”を見る。

そのおじちゃんは、鉄でできた腕を見せていた。


家に戻り、おじちゃんのそばにあった段ボールの看板のことを聞く。

その看板には

自分は戦争に行き、腕を失いました。
国から出る手当だけでは生きていくことができず、
こうやって体をさらして生きています。

そんなようなことが書いてあったそう。

昭和49年か50年ころの話。

日曜日の何気ない歩行者天国での

そこだけが時が止まった一コマ

戦争はとっくの昔に終わっていたはずだが、

戦争のもたらした理不尽な不幸は終わることはなく、

30年近くたっても人を苦しめ、続いていたのだ





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